御手杵は、天下三名槍の一つとして呼ばれています。 御手杵は、下総国大名・結城晴朝が、駿河嶋田の五条義助に鍛えさせました。養嗣子・結城秀康(徳川家康の次男)に継承され、関ヶ原の合戦の武功により、越前北ノ庄への加増移封されます。そのため、結城家は、秀康の五男・直基を養嗣子の迎えます。 直基は、義父・晴朝の逝去に伴い、姓を松平に戻し松平大和守と結城家を継いで、結城松平家の宗家となります。
御手杵は、松平大和守の象徴として、その名の因んだ"手杵" の形を極端にデフォルメした巨大な鞘が作られ、馬印として参勤交代では先頭にありました。
熊毛で覆われた高さ5尺(150cm)、直径1尺5寸(45cm)の大きさ、並はずれた重量であり重量は6貫目(22.5kg)あったと伝わっています。道中で雨が降ると水を吸って10貫目(37.5kg)を越え、普通の人間にとっては運ぶことも大変だったといわれています。松平家には、御手杵の鞘を抜くと雪が降るという伝承があったようです。
江戸時代中に "西の日本号" "東の御手杵" と並び称され、それに"蜻蛉切" が入って天下三名槍と呼ばれるようになりました。
ところが、御手杵は第二次世界大戦により消失しました。箭弓稲荷神社は、歴代藩主、特に川越藩主・松平大和守家の手厚い保護を受けていました。そこで、比企御手杵のレプリカは、郷土の貴重な資料として比企総合研究センターによって作成され箭弓稲荷神社に寄贈されたものです。