岩殿山安楽寺は、延暦年間(800年初頭)、坂上田村麻呂の奥州征伐の折、この地に立寄り戦勝祈願をすると、聖観世音菩薩を祀った岩戸から光明が差したことで、当初は岩戸山光明院安楽寺と称され、田村麻呂によって堂宇が建立(806年)されたといわれています。
現在の本堂は今から約350年前の寛文元年、秀慶法印によって再建されました。その様式は禅宗様に和様を交えた典型的な五間堂の平面を持つ密教本堂で、内部各部材に施された華麗な色彩文様と共に江戸時代前期の様式を保持しています。屋根はもともと柿葺でしたが、大正12年の改修時に銅瓦棒葺に改修時されました。
現存する三重塔は今から約380年前の寛永年間に杲鏡法印によって建築されたもので、本堂・三重塔・仁王門・大仏等の中では最も古い建造物です。総高約25mの三重塔で基壇は設けられず、心柱は初重天井上の梁で支えられています。屋根は柿葺でしたが、現在は銅板葺に改修。初重の面積は高さに比較して非常に大きく、各重の面積の縮減も程よく、これに加え軒の出が非常に深いので塔全体にどっしりとした安定感を感じさせています。
仁王門は、東大寺・転害門と同様の三棟造り。境内入口の南面に立つ三間一戸の八脚門です。
仁王像の造立は息障院文書によるとか元禄15年(1702)といわれています。平成8年~10年の解体修理で、元禄年間の造立時の寄進者を列記した棟札等が胎内から発見されました。
安楽寺観音堂には、伝左甚五郎作と伝えられる“野荒らしの虎”が掲額されています。 西方を守護するといわれる白虎が、夜な夜な額から逃げ出し田畑を荒らし続けます。被害を受けた村人達は、鍬や鋤で白虎を懲らしめます。傷ついた白虎は村人を困らせたことを反省し観音堂の額に戻り、その後は村人を加護したといわれています。
須弥檀の前には坂上田村麻呂、東方は持国天、西方に広目天、南方は増長天、北方には多聞天の仏神が東西南北四方を守護しています。
須弥檀左手奥には 大日如来像および弘法大師像、 右手奥には、杲鏡法印像および不動明王像が祀られています。
札所めぐりとは、もともとは観音を祀る寺院である霊場をめぐる巡礼であり、霊場のご本尊との結縁を願って自分の住所、氏名を書いた木札を、拝観した寺の天井や柱に打ちつけた。そのため、これらの霊場を札所と呼び、巡礼のことを札所めぐりと呼ぶようになった。「観音」とは、正しくは「観世音菩薩」と言い、「世の音を観て」それに応じた姿で人々を救うという意味がある。この観世音菩薩は33種の姿に変えることから、札所の数もそれにならって三十三箇所になっている。
札所巡りとして有名なものは「西国三十三所」「坂東三十三所」「秩父三十四所」で、これらの観音霊場を全てめぐると百観音となる。西国三十三所は平安時代に成立し、坂東三十三所は鎌倉時代、秩父三十四所は室町時代に始まったと言われている。
これらの札所めぐりも江戸時代となって世の中が安定し、全国的な交通網が発達すると、庶民に普及し広まっていった。しかし、純粋な信仰心というより、札所寺院の他に名所や旧跡を訪れ、土地の名物を食すなど、行楽的なものであった様である。
また、遠隔地を巡礼できない人々のために、小規模な新しい札所が整備され、その地域ごとに完結する札所めぐりの風習が広まった。こうした中で比企地域に生まれたのが、「比企西国三十三所」「入比にっぴ坂東三十三所」である。(吉見町HPより転載)