吉見観音 (岩殿山光明院安楽寺)

吉見観音(岩殿山安楽寺)は坂東11番の札所で、吉見観音の名で古くから親しまれています。観音堂の本尊は聖観世音菩薩です。吉見観音縁起によりますと、今から約1200年前、奈良東大寺建立の折、導師を務めた行基上人がこの地に観世音菩薩像を彫り岩窟に納めたことが始まりといわれています。平安時代末期、保元平治の乱で平氏に敗退した源氏の嫡子・源頼朝は伊豆の蛭ヶ小島に流されますが、弟の範頼は比企尼の庇護のもと稚児僧として安楽寺に身を隠しておりました。そして、頼朝が挙兵し、治承・寿永の乱(源平合戦)で、武功をあげた範頼は、安楽寺の東約500mに館を構えます。
その地に息障院が現存しており、“範頼館跡”と呼ばれています。
天文6年(1537年)、後北条氏(氏綱)が武蔵松山城を攻めた折、その戦乱によって全ての伽藍が消失。江戸時代に本堂・三重塔・仁王門が現在の位置に再建されたと伝えられています。毎年6月18日は“厄除け朝観音御開帳”が行われ、この日は古くから“厄除け団子”が売られ、現在でも“朝観音”には境内に多くの出店が立ち並び、深夜2時ごろから早朝にかけて大変な賑わいとなっています。 

岩殿山安楽寺は、延暦年間(800年初頭)、坂上田村麻呂の奥州征伐の折、この地に立寄り戦勝祈願をすると、聖観世音菩薩を祀った岩戸から光明が差したことで、当初は岩戸山光明院安楽寺と称され、田村麻呂によって堂宇が建立(806年)されたといわれています。

現在の本堂は今から約350年前の寛文元年、秀慶法印によって再建されました。その様式は禅宗様に和様を交えた典型的な五間堂の平面を持つ密教本堂で、内部各部材に施された華麗な色彩文様と共に江戸時代前期の様式を保持しています。屋根はもともと柿葺でしたが、大正12年の改修時に銅瓦棒葺に改修時されました。 


現存する三重塔は今から約380年前の寛永年間に杲鏡法印によって建築されたもので、本堂・三重塔・仁王門・大仏等の中では最も古い建造物です。総高約25mの三重塔で基壇は設けられず、心柱は初重天井上の梁で支えられています。屋根は柿葺でしたが、現在は銅板葺に改修。初重の面積は高さに比較して非常に大きく、各重の面積の縮減も程よく、これに加え軒の出が非常に深いので塔全体にどっしりとした安定感を感じさせています。


仁王門は、東大寺・転害門と同様の三棟造り。境内入口の南面に立つ三間一戸の八脚門です。

仁王像の造立は息障院文書によるとか元禄15年(1702)といわれています。平成8年~10年の解体修理で、元禄年間の造立時の寄進者を列記した棟札等が胎内から発見されました。


安楽寺観音堂には、伝左甚五郎作と伝えられる“野荒らしの虎”が掲額されています。 西方を守護するといわれる白虎が、夜な夜な額から逃げ出し田畑を荒らし続けます。被害を受けた村人達は、鍬や鋤で白虎を懲らしめます。傷ついた白虎は村人を困らせたことを反省し観音堂の額に戻り、その後は村人を加護したといわれています。


安楽寺観音堂には、源頼政の“鵺退治”および源範頼の館などの絵馬が掲額されています。

須弥檀の前には坂上田村麻呂、東方は持国天、西方に広目天、南方は増長天、北方には多聞天の仏神が東西南北四方を守護しています。

須弥檀左手奥には 大日如来像および弘法大師像、  右手奥には、杲鏡法印像および不動明王像が祀られています。


“補陀落”の扁額は、吉見村出身の愚禅和尚(前加賀・大乗寺住職)の揮毫。“岩殿山”の扁額は、鴻巣の書家・鈴木周水による享保年間のものです。


吉見町大字御所地内の息障院がある一帯が、源範頼の居館跡と伝えられています。源範頼は頼朝の弟で平治の乱後、岩殿山
安楽寺の稚児層として比企氏の庇護によって成長します。頼朝が鎌倉で勢力を得た後も吉見に住んでいたと思われ、館を中心とするこの地を御所と呼ぶようになったと言われています。
範頼は遠江国 蒲御厨(かばのみくりや:浜松市)で生まれたことから、蒲冠者とも言われていますが、頼朝・義経の生涯が良く知 られていることに対して、不明なことや謎とされていることが 多くあります。
治承・寿永の乱(源平合戦)では義経と共に平氏追討軍を指揮、頼朝が征夷大将軍になると謀反の疑いをかけら れ、建久四年(1193年)8月に伊豆に流されました。範頼のその後については不明であり「修善寺で自刃」「現横浜市 の 太寧寺で自刃」「伊予国(愛媛県)の河野氏を 頼りそこで没した」「北本市石戸宿で没した」などの諸説が あります。
範頼没後はその子 範円(一説には 範国)、為頼 、 義春、 義世 に至る五代がこの館跡に居住し範円以降は吉見氏を称します。 
永仁四年(1296年)、範円の孫義春が謀反の罪で殺害され、 次いで義春の子義世も謀反の罪で捕らえられ殺されるなど、北条氏の弾圧を受けました。
現在の息障院がこの地に移ったのは、室町時代の明徳年間と伝えられますが、今なおこの寺の周囲には、範頼の館建立時に作られた堀の一部等が残っています。

札所巡り

札所めぐりとは、もともとは観音を祀る寺院である霊場をめぐる巡礼であり、霊場のご本尊との結縁を願って自分の住所、氏名を書いた木札を、拝観した寺の天井や柱に打ちつけた。そのため、これらの霊場を札所と呼び、巡礼のことを札所めぐりと呼ぶようになった。「観音」とは、正しくは「観世音菩薩」と言い、「世の音を観て」それに応じた姿で人々を救うという意味がある。この観世音菩薩は33種の姿に変えることから、札所の数もそれにならって三十三箇所になっている。

札所巡りとして有名なものは「西国三十三所」「坂東三十三所」「秩父三十四所」で、これらの観音霊場を全てめぐると百観音となる。西国三十三所は平安時代に成立し、坂東三十三所は鎌倉時代、秩父三十四所は室町時代に始まったと言われている。

これらの札所めぐりも江戸時代となって世の中が安定し、全国的な交通網が発達すると、庶民に普及し広まっていった。しかし、純粋な信仰心というより、札所寺院の他に名所や旧跡を訪れ、土地の名物を食すなど、行楽的なものであった様である。

また、遠隔地を巡礼できない人々のために、小規模な新しい札所が整備され、その地域ごとに完結する札所めぐりの風習が広まった。こうした中で比企地域に生まれたのが、「比企西国三十三所」「入比にっぴ坂東三十三所」である。(吉見町HPより転載)


吉見観音 概略資料

訂正: 源範頼は頼朝の義弟→弟の誤りです