吉見百穴は、明治20年に当時東京帝国大学院生だった坪井正五郎が、卒業論文の一環として、吉見百穴の発掘を行いました。
吉見百穴は、江戸時代の元文元年(1736年)の絵図にも描かれており、地元民は「不思議な穴があちこちに開いている」と言い伝えられておりました。
発掘調査は半年の歳月を費やし、237基の穴が発見されました。人類学会を創設し弥生式土器も発見した坪井正五郎は、この多数の穴は「サイズや構造からみて古代コロボックル人の住居跡ではないか」と称えました。一方、同僚の白井光太郎は、住居説を否定し「古代人の横穴墓」説を学会誌に匿名で掲載しました。 当初、坪井vs白井の構図に論客を交えて『住居穴か横穴墓か』の論争が続きました。しかしながら明治から大正にかけての考古学の発達及び坪井正五郎の死去(大正2年)によりコロボックル住居説は衰え、集合墳墓説が定説となりました。そして、吉見百穴は1923年(大正12年)国の史跡に指定されました。また地元松山高校郷土部は永く地域の埋蔵文化財の調査を行っております。
太平洋戦争末期、吉見百穴に中島飛行機の地下軍需工場(エンジン工場) が建設されました。吉見百穴が選定された理由は、「古代人が作り上げた横穴墓群で、岩山は "凝灰質砂岩" で掘削しやすく、しかも粘性が強く落盤の危険度が少ない。
この地質から短期間で掘削し建設できる」ことによります。軍需工場工区は、近隣の松山城跡から吉見百穴〜岩粉山までの1,300mとしていましたが、松山城跡は、岩盤のため掘削できず、吉見百穴と岩粉山が掘削されました。
吉見百穴の岩山最下部に、直径3メートルほどのトンネルが碁盤の目状に掘られ、出入口として3ヶ所の坑口が掘り出され、トンネル総延長は、8,400mとも10,000mともいわれています。工場関連資料は終戦後に全て焼却されたため詳細は不明)です。
吉見百穴の脇には市野川が蛇行して流れていましたが、軍需工場の前面用地を確保するため、流路を西側へ移動する河川改修も合わせて行われました。このため、当初237基の横穴18基が崩されて、現在は219基となっています。 軍需工場の掘削作業には成人男子が兵役についたため、当時東松山地区に住んでいた朝鮮からの労働者(3,000〜3,500人)が従事しました。
工場に従事し、昭和51年になって帰国された河本氏(河亨権氏)によると「身近に強制労働された人はなく、作業は昼夜2交代制で厳しかったが、日当は2円50銭が支払われた」とのことです。 同氏は帰国に際して、日朝平和友好親善を祈念として
韓国の国花 <ムクゲ> を植樹されました。