丸木美術館


原爆の図丸木美術館は、画家の丸木位里・丸木俊夫妻が、共同制作《原爆の図》を、誰でもいつでもここにさえ来れば見ることができるようにという思いを込めて建てた美術館です。
丸木夫妻は、広島に投下された原子爆弾の様子をいち早く目撃し、代表作となる《原爆の図》をはじめ、 戦争や公害など、人間が人間を傷つけ破壊することの愚かさを生涯かけて描き続けました。
この美術館では、そうした丸木夫妻の生命への思いを受け継ぎながら、芸術家としての二人の活動を紹介しています。

第1部 幽霊

それは幽霊の行列

一瞬にして着物は燃え落ち

手や顔や胸はふくれて、

紫色の水ぶくれはやがて破れて、

皮膚はぼろのようにたれさがった。

手をなかばあげてそれは幽霊の行列、

破れた皮を引きながら力つきて人々は倒れ、重なりあってうめき、死んでいったのでありました。

爆心地帯の地上の温度は六千度、

爆心近くの石段に人の影が焼きついています。だが、その瞬間にその人のからだは、蒸発したのでしょうか。

飛んでしまったのでしょうか。

爆心近くのことを語り伝える人はだれもいないのです。

焼けて、こげただれた顔は見分けようもなく、声もひどくしわがれました。

お互いに名乗りあっても信じることはできないのです。

赤ん坊がたった一人で美しい膚のあどけない顔でねむっていました。

母の胸に守られて生き残ったのでしょうか。

せめてこの赤ん坊だけでも、

むっくり起きて生きていってほしいのです。


第2部 火

青白く強い光。爆発、圧迫感、熱風
――天にも地にも人類がいまだかつて味わったことのない衝撃。

次の瞬間に火がついた。
めらめらと燃えあがり、広漠たる廃墟の静寂を破って、ごうごうと燃えていったのでありました。

うつぶせて家の下敷きになったまま失心した人、気がついて抜け出ようとして、紅蓮(くれん)の 炎につつまれていった人。グラスの破片がざくりと腹につきささり、腕がとび、足がころがり、人々は倒れ焼け死んでいきました。

倒れた柱の下敷きになり、こどもを抱いたまま、母親は逃れ出ようとあせりました。
「早く早く」
「もうだめです」
「子供だけでも」
「いいえ、あなたこそ逃げてください。
わたしはこの子と死にます。路頭に迷わすだけですから」

母と子は助け出そうとする人の手をふりきって、炎にのまれていきました。


第3部 水

足の方を外側にして、顔を中心にして、死体の山がありました。
顔や口や鼻がなるべく見えないように積み重ねてあったのです。

焼き忘れられた山の中から、
まだ目玉を動かして、じっと見ている人がいました。
本当にまだ生きていたのでしょうか。
それともうじが入っていてそれで動いたのでしょうか。

水、水。人々は水を求めてさまよいました。
燃える炎をのがれて、末期の水を求めて……

傷ついた母と子は、川をつたって逃げました。
水の深みに落ち込んだり、あわてて浅瀬へのぼり、走り、
炎が川をつつんであれ狂う中を水に頭を冷やしながら、
のがれのがれて、 ようやくここまで来たのです。

乳をのませようとしてはじめて、
わが子のこときれているのを知ったのです。

20世紀の母子像。
傷ついた母が死んだ子を抱いている。
絶望の母子像ではないでしょうか。
母子像というのは、希望の母と子でなければならないはずです。


第4部 虹

全裸のからだに軍靴と剣だけをつけた兵隊。
手を折り、足をつぶした若い兵隊。
病兵は、破れた皮膚に毛布をかぶって逃げまどいました。

音ひとつない、シーンと水を打ったような瞬間……
気の狂った兵隊が天をさして、
「飛行機だ、B29だ」と叫びつづける。
どこにも飛行機の影はないのです。
傷ついた馬が、狂った馬たちがあばれまわるのでした。

日本を爆撃にきたアメリカの兵士が
捕虜になって広島の兵舎に入れられていました。
原爆は敵も味方もなく殺してしまいます。
二人の兵士は手錠をはめられたまま、
ドームわきの路上に倒れておりました。

上空高くまで吹きあげられた煙とほこりが、
雲を呼び、やがて大粒の雨となって、
晴天のまっただなかに 降りそそいだのでありました。

そして暗黒の空に虹が出ました。
七彩の虹がさんさんとかがやいたのでありました。


第5部 少年少女

流れに沿い、頭を並べて水をしたい、
そうして累々とつらなり死んでおりました。
末期の水は、川辺までたどりついてもまだずっと下の方でしたから、水ものまずに息を引きとったのです。

おとなたちの建物疎開の手伝いに子どもたちが動員されたのです。
一クラス全滅、というクラスがたくさんあります。
 かわり果てた姿で抱きあっている姉と妹。

からだにかすり傷一つないのに死んでいった少女もあります。

この絵をみて、
「わたしの娘はクラスでたった一人生き残ったのです。
けれど手はひっついて内側へまがり、
顔ものどもひっついてしまい、歩くことも出来ませんでした。
身体は十三才のそのときのまま成長しないのです」と被爆した大工さんは話してくれました。


第6部 原子野

食べ物はなく
薬はなく、家は焼け、
雨にたたかれ、電灯はなく、
新聞はなく、ラジオはなく、医者もなく、
屍や、傷ついた人にウジがわき、
ハエが群生してむらがり、音をたてて飛びかっておりました。 

屍のにおいが風に乗って流れました。
人々のからだが傷つくだけでなく、
心も深く傷つきました。

破れた皮膚をおおうことも忘れた人が、
わが子を捜して歩いていました。
来る日も来る日もさまよっておりました。

広島は、今でも人の骨が地の中から出ることがあるのです。


第7部 竹やぶ

人々は竹やぶへのがれました。
地震ではない、だが何でしょう。
焼夷弾のかたまりでしょうか。
爆弾にはちがいない、いや、殺人光線だ。

なにしろ、ピカッとしてドーンとひびいたのです。
いいえ、広島ではドーンは聞こえませんでした。
あまりの大きさでしたから、ピカです。
「ピカの時にゃ」と話します。

広島の郊外には竹やぶがたくさんありました。
竹も片側が原爆でやけどをしていました。
家を失った人びとは、竹やぶへ逃れていったのです。
そうして次々と息を引きとっていきました。

「助けてくれ」と呼ばれても、助ける勇気はなかったのです。
もうこれ以上、わたしたちの家に収容しきれなかったのです。
三滝の橋の下は屍でいっぱいでした。

その中に、年もわからず、男か女か、
生きているらしいと思われる人がうずくまっていました。
八月二十六日の朝、頭を落として死んでいました。
原爆が落ちたのは八月六日でしたから、
二十日間、じっと耐えていたのです。

屍の片づけをする人もなく、九月に入って台風となり、
たくさんの屍たちは海へ流れていきました。


第8部 救出

いつまでも火は燃えつづけておりました。
ようやく身よりの人を捜して連れて帰りました。けれど、途中でこときれていきました。
配給があるというので行列がつづきました。乾パンを抱いたまま、娘は死んでいきました。

わたくしたちの妹のむこの両親は、二人ともガラスの破片が全身にささっていました。足首も、ももも、同じ太さにはれていました。わたしたちのところに避難していましたが、長男のところへ連れて行くことになりました。
荷車にのせて引いて行きました。
爆心地を通って海田市まで行きました。

しとしと、雨の降る日でした。
原爆のあと、広島ではよく雨が降りました。八月というのに寒いような日が続きました。

本当は、「かあさんごめんなさい」といって逃げてきたんですと、泣いている人がいます。妻は夫を、夫は妻を、親は子を捨てて逃げまどわねばなりませんでした。

救出がはじまったのはしばらくしてからのことです。


第9部 焼津

1945年、ひろしまに人類はじめての原爆が投下されました。
続いて長崎にもう一発そうして、ビキニ環礁で人類初の水素爆弾が爆発しました。

久保山愛吉さんが亡くなりました。
日本人は三度、原爆水爆の犠牲となったのです。

【後記(1983年5月)】
日本人ばかりではありませんでした。
ビキニ環礁の近くのミクロネシアの人びとは水爆の死の灰をかぶりました。

島全体が汚染されてしまいました。
島を追われた人びとが、生まれ故郷ビキニへ帰った時、残留放射能を受けてガンや白血病で倒れ、傷つき、今も苦しんでいるのです。
焼津とビキニ。

それは宿命の兄弟となったのです。


第10部 署名

原爆やめよ、
水爆やめよ、
戦争やめよ。

東京杉並のお母さんたちの呼び声は
日本中にひろがりました。
こどもも、お母さんもお父さんも年よりも、
ありとあらゆる職場の人が署名しました。

民衆の声なき声が声となり、
このように平和を求めるたくさんの署名が集まったのは、
はじめてのことでした。


第11部 母子像

家の下敷きとなり、燃えさかる中を、
親は子を捨て、子は親を捨て、
夫は妻を、 妻は夫を捨てて
逃げまどわねばなりませんでした。

それがほんとうの原爆の時の姿なのです。
だが、そうした中で不思議な事に
母親が子供をしっかりと抱いて、
母は死んでいるのに子供が生きているという、そんな姿をたくさん見ました。


第12部 灯篭流し

8月6日、広島の七つの川はとうろうであふれます。父の、母の、妹の名をしるして流すのです。流れ終わらぬうちに潮は逆流し、あげ潮にのって、とうろうはもどってきます。

火はすでに消え、
折り重なって暗い流れにただよいます。

それはあの時、屍に満ちて流れた川と同じ太田川なのです。


第13部 米兵捕虜の死

あなたの落とした原爆でわたしたち日本人は三十数万死にました。
けれどあなたの原爆であなたのお国の若者も二十三人死んだのです。

ひろしまに原爆が投下される前に日本爆撃にきたB29から落下傘で降下した米兵を捕虜にしてあった。
女の捕虜もいたという。
米兵捕虜の最後の姿は、どんな着物だったろう、どんな靴であったろう。

ひろしまを訪ねて驚きました。
爆心地近くの地下壕にいれられていた米兵捕虜たちはやがて死ぬかもしれません。
いや、或いは生きたかもしれないのです。
けれどその前に日本人が虐殺しているということを知りました。

わたしたちは震えながら米兵捕虜の死を描きました。


第14部 からす

韓国・朝鮮人も日本人も同じ顔をしています。被爆したむざんな姿はどこで見分けることが出来ましょう。

『原爆がおちゃけたあと、
一番あとまで死骸が残ったのは朝鮮人だったとよ。日本人はたくさん生き残ったが朝鮮人はちっとしか生きの残らんぢゃったけん。どがんもこがんもできん。
からすは空から飛んでくるけん、うんときたばい。朝鮮人たちの死骸の頭の目ん玉ば、からすがきて食うとよ。
からすがめん玉食らいよる』  
(石牟礼道子さんの文章より)

屍にまで差別を受けた韓国・朝鮮人。
屍にまで差別した日本人。
共に原爆を受けたアジア人。

美しいチョゴリ、チマが。
飛んで行く朝鮮、ふるさとの空へ。
からす完成、謹んでこれを捧げます。
合掌。

長崎の三菱造船に強制連行された
韓国・朝鮮人約五千人が集団被爆しました。ひろしまにも同じような話があります。
今、韓国だけでも一万五千人近くの被爆者が原爆手帖さえなく暮らしているのです。


第15部 長崎 (長崎原爆資料館所蔵)

めざしていた小倉は、
厚い雲におおわれていました。

B29 2機は、第2目標の長崎の港にまわりました。
ここも視界が悪いため、街の中心をはずれた 三菱製鋼に原子爆弾を投下したのです。

それは、浦上カソリック教会の頭上で炸裂しました。
ちょうどその頃、礼拝にきていた信者さんたち、神父さんも亡くなりました。
天主堂を中心として、死者は輪になって延々とひろがり増えていきました。

長崎の原爆はプルトニウムというものを材料としていて、広島より強力なものでありました。

もう一発の原爆。
打ちくだかれた長崎。
14万人が死にました。


丸木位里さんと俊さんご夫妻が、東京から東松山市・都幾川沿いに丸木美術館を建てた理由は、都幾川の風景が位里さんの出身地・広島を流れる太田川に似ており故郷に思いを馳せたからといわれています。美術館建設当初は、平家の2部屋からなる美術館でした。
俊さんは北海道出身の洋画家。お二人の出会いは、上京して知合い太平洋戦争開戦時の1941年に結婚。池袋のアトリエで、位里さんは水墨画、俊さんは油画が専門でした。当時は、戦争の絵を描くと売れたそうでしたが、丸木夫妻は芸術家として、自由な発想での絵画を標榜するあまり困窮生活を強いられます。戦時中は浦和に疎開します。そして1945年8月6日に広島に新型爆弾が投下されます。位里さんの実家は爆心地から2.5km離れた安佐北区。
位里さんは新型爆弾(原子爆弾)の投下から3日後の9日に広島に帰郷、俊さんは1週間後に訪れます。丸木夫妻は、広島の惨状を目の当たりにして1ヶ月ほど広島に留まり救援活動に尽力します。
しかしながら残留放射能により被曝してしまいます(ご夫妻は被曝手帳を持っています)。ご夫妻は、明るい絵を描こうとしますが絵筆が動きません...新型爆弾投下による惨状が脳裏から離れません。終戦後はGHQが統治しており全ての出版物や発行本などに対する検閲が厳しく、新型爆弾投下による被災状況や被災者状況を把握することが難しく、眼にすることすらできません。このような状況でも絵画については検閲がさほど厳しくなく丸木夫妻は5年後に夫婦共同で第1作目の“ゆうれい”を制作します。この作品は、新型爆弾による被災者が焼け爛れた両手を下げて歩くと痛いので、両手を心臓の高さまで上げて歩く姿が、まるで幽霊のようだとのことから作品名がつけられたようです。
その年の1950年には朝鮮戦争が没発。朝鮮半島にも原子爆弾が落とされるのか?新たな戦時下に見舞われるのか?との危惧から、この先の未来に対する警鐘も意図して“原爆の図”を制作したのではないかといわれています。
原爆の絵は丸木夫妻以外の画家も描いていますが、その絵の多くはキノコ雲や原爆ドームや焼け跡を描いています。しかし丸木夫妻の原爆の図は人間の肉体のみであり、背景は描かれていません。猫や動物も描かれていますが、“いのち”を描いた絵画といえます。
丸木夫妻は、3部作を描いたのち原爆の図を掛軸状にして背負って北海道から九州までの全国を巡ります。さらに、世界20カ国以上を巡回することにより、多くの人々に原爆の恐ろしさを伝え、結果として丸木夫妻が知れるようになります。掛軸であれば展示会中にGHQが踏み込んできて、危険を察知した時、原爆の図を巻き上げて逃げられるからです。
原爆の図は広島の被害以外にも、第五福竜丸が水爆実験で被曝した絵や、原水爆反対署名運動の絵、さらには被曝した米国人や朝鮮の人達の絵も描いています。
丸木夫妻は、世界中を廻って感じたことは自分達の被害だけを考えていることに疑問を抱きます。どんな戦争でもお互いに傷つけ合う。一見被災した日本の被害の象徴の中にも、戦争の加害性も潜んでいるのではないか。一方的に被害者、加害者の線引きをして良いのか、自分のいたみには敏感になりがちだが、被害者のいたみだけでなく、他者の被害を想像することが必要だと丸木夫妻は考えます。つまり、命に線を引かない。国家、人種、言葉などの違いに線引きをしないことが重要だと考えます。戦争のない世であっても、常に苦しい立場の側に立って世界を見ていくことを絵画を通して実践したのです。

丸木位里・俊夫妻は、1995年にノーベル平和賞にノミネートされました。同年には朝日賞を受賞しております。