無量寿寺:
無量寿寺は、曹洞派 遠江国榛原郡高尾村 石雲寺の末寺です。
天正19年(1591)には寺領10石の御朱印状を受領し利仁山と号します。
寺領の外境内に14,100坪の廻りは四方に堤を築き堀跡が残っています。
当寺の濫觴(らんしょう:起源)を辿ると、往古(おうこ:往時) 利仁将軍が武蔵守だった頃、当所に居を構えた後、任務が満了して下野国に移り住みます。その後、土着名将の古墳であることから一寺を建立して、利仁山野本寺と号します。
然しながら応永年間(1394-1428)1の頃、関東が乱れ軍勢により乱妨(乱取り:戦さ後の掠奪など)により寺塔が傾廃(荒廃)しましたが、長享(1487-1488)年中に性岱(せいだい)という僧が禅寺として再興し利仁山無量寿寺と号したといわれます。僧・性岱は明応5年(1496)に寂したといわれます。
往時、利仁将軍の陣屋だったといわれていますが、これといった記録がないので考えを巡らすことはできません。本尊は阿弥陀仏を安置。春日の作といわれます。本堂内に古鐘が一口(一鐘)残されていますが、貞享2年(1685)に本堂裏手を掘り起こした時、地中より鐘銘が発掘され、当寺は野本寺といわれた古刹であることが判明。
鐘銘は次の通り:
奉鋳鐘 一口(鐘の数え方)二尺七寸
野本寺
諸行無常 是正滅法
生滅々己 寂滅為楽........(略)
慶長六年(1601)甲寅二月十五日
(略)
本尊:阿弥陀如来
由緒:当寺は天保年間に祝融(火災)災害に罹(かか)り、本堂 庫裏(伽藍) 鐘楼その他 星散(散らばった)一宇(建物)から当寺の什宝および記録 古文書などに至るまで悉く烏有(存在せず)となり、創建年月の確証を失った。
しかしながら、古老の伝説によるところから、また他の古文書から攷(こう:考察)すると、延喜の昔 鎮守府将軍であった従四位下 藤原利仁朝臣合わせて武蔵守であった頃、この地に在していました。任期満了をもって帰洛(都に戻ること)。その後、土着人が将軍の徳を慕い且つ名将の遺跡であること、および将軍の冥福祈るために伽藍を建立、やがて利仁山野本寺と号します。
本阿弥陀如来は春日の作と言い伝えられるが天保の災を免れ安置される。 ただ、応仁の頃の関東兵乱で堂宇などが悉く荒廃しましたが、長享年間に遠江国榛原郡坂口村石雲院二世季雲がこの地に来てこの霊地の荒廃(瓦礫)を傷み堂宇を改築して禅刹とし、寺号を無量寿寺と更(あら)ため、漸く旧観に復原。よってこれを当寺中興開山と称します。
その後、天正十九年十一月 徳川氏より十石の朱印併せて境内14,000坪の不入地を賜ります。また、寺宝として最も著名である鐘は天保の災いによって一塊の銅と化したが、一口 二尺七寸 野本寺の文字および四句の銘が残存。紀忠清および橘氏女が仏法興隆と衆生利益のために、建長六年甲寅二月十五日に鋳出しされたとのことです。今はその拓本が存在するのみです。東国兵乱の頃、軍用徴発を憂慮して、寺僧が土深く埋蔵したのではないだろうか。その後はその埋蔵場所を知る者はなく、貞享年中に当寺十一世の時に寺男がたまたま後林を掘ったところ古鐘の所在を発見。以来、殊さら秘蔵すべきものとします。聖護院道興回国雑記に、“ ” との歌があります。 その頃に、土中に埋没し当寺境内に堤を築き、堀を造ったと塁跡を観察するとこのように思えます。ここに改めて天保の災いを悼みます。
(付記)
当寺の南方におよそ二丁四方高さが五十六丈(168m)の瓢箪状の小丘があり、通称 将軍塚または将軍山といわれています。これは、利仁将軍の霊を招魂して祀り当寺の鎮護となっています。しかしながら、維新後は分離し利仁神社と称する公認神社となります。当地において陰暦六月一日に外門あたりに燎(篝火)を焚く習慣があります、古の昔 将軍が下野国高座山の賊を成敗したとき、まさに盛夏にもかかわらず降雪があり土地の人々が将士に暖をとらせたことに起因しているといわれます。また、大日本史には下野国高座山の賊・魁宗蔵安蔵が百有余人を絞り貢ぎ物を掠め取りました。朝廷は、利仁に命じて賊を討伐し、将軍は武蔵守として推挙されました。
(新編武蔵風土記 現代語訳)