比企一族は、鎌倉幕府の立役者の一族であり、頼朝の乳母であった比企禅尼(比企局)の一族です。 比企禅尼は、平氏に破れ伊豆に流刑された頼朝を20年間支えた頼朝の乳母でした。頼朝は比企禅尼の恩に報い、禅尼の養子・比企能員を重用しました。比企能員は、頼朝の嫡子・頼家の乳母父となるまでに信任を得るようになります。そして、能員の娘・若狭局は頼家の側室となって嫡男一幡を産み、比企一族は将軍家外戚として権勢を強めてきました。
頼朝の死去により、18才の嫡男頼家は二代将軍となります。しかし、ほどなく頼家の裁決権は停止され、幕府に13人の合議制が敷かれます。御家人の勢力が強まり、将軍頼家側近の梶原景時が失脚...頼家に大きな痛手となります。
景時も亡くなり、頼家を支えたのは比企能員でした。将軍家外戚として比企氏が台頭してきたことに危機感を抱いたのが、頼家の母・北条政子と政子の父・北条時政です。
そして、頼家が危篤に陥り将軍継承に係る合議が開かれました。関西の地頭職は頼家の弟・千幡(実朝)を推奨しますが、関東の地頭職らによって頼家の嫡男・一幡が継承者に推されます。一幡の外祖父・比企能員は千幡との分割相続に憤慨し、千幡ならびに外戚支持者を排斥しようとしました。
能員が娘・若狭局を通じて、病床にある頼家に北条時政を討伐するように伝えます。この密談を政子が障子越しから盗み聞きし、父・時政に知らせます。時政は、政所初代別当・大江広元に能員征伐を相談すると、広元は同調します。時政は仏事を事由に能員を時政邸に呼び寄せます。能員は平服で時政邸にやって来ると、時政とその手勢が武装して待ち構え、能員を誅殺します。能員の謀殺を知った比企一族は、一幡の邸に立て籠もりますが、これは 比企一族の "謀反" として政子が討伐の命が下り、一幡および比企一族は滅亡します。
東松山市大谷地区に宗悟寺(そうごじ)という曹洞宗の寺社があります。この寺は、頼家の妻・若狭局が頼家の供養のために建立した"寿昌寺"
を、天正年間になって、旗本森川氏がこの地に移して中興したそうです。比企氏館はこの宗悟寺の東側の城ヶ谷にあったといわれております。宗悟寺には、若狭局が持ち帰った
"頼家のご位牌" が安置されています。 また宗悟寺の北西にある比丘尼山は、比企禅尼や若狭局が草庵を結んだところだという伝承があります。比丘尼山に接する串引沼の由来は、若狭局が頼家から貰った思い出の櫛を、比企禅尼に諭されて、この沼に沈めたことによる、と伝えられています。