◼️室町時代
武州松山城(以下松山城))は、室町時代の応永6年(1399年)に上田友直によって築城されたとの伝承があります。室町時代から戦国時代にかけては、武蔵国の要衝として、関東の諸勢力による激しい争奪戦が展開されます。松山城は下総・古河の古河公方および上野国から武蔵国への進出を狙う関東北に位置する山内上杉氏に対する前線拠点の役割を演じていました。一方、関東の南では、伊豆韮山を拠点とした伊勢氏(伊勢宗瑞:後の北条早雲)の勢力が、相模国から武蔵国に拡大伸張すると、長年のあいだ反目し続けていた扇谷上杉氏と山内上杉氏および古河公方の間で和睦が成立、松山城は侵攻してくる小田原北条氏に対する重要な拠点となりました。天文6年(1537年)河越城は北条早雲の嫡男・二代北条氏綱によって攻め落とされ、さらに松山城も攻撃を受けますが、扇谷上杉の家臣で松山城主・難波田憲重らの活躍で撃退します。この戦で、北条家の侍大将・山中主膳と難波田弾正の間で繰り広げられた、“松山風流歌合戦”が有名です。
難波田弾正は、北条勢に立ち向かうべく、松山城の搦め手門(岩室観音といわれています)から、馬上に乗って戦いを挑みます。が、敵前に馬を進めるや、踵を返して搦め手門から引き返そうとします。それを見た北条軍の侍大将・山中主膳が、このような和歌を詠みます “あしからじ よかれとてこそ 戦かはめ など難波田の
崩れゆかなん” この和歌に対する返歌として、難波田弾正は、“君おきて あだし心 われ持てば 末の松山 波も越えなん” と言い切って若君・上杉朝定の居る松山城に急峻な搦め手門を馬で駆け登った、という伝承話が残っています。
上杉朝定と難波田弾正憲重は、北条勢の攻勢に備えるために、松山城に三の曲輪を拡張し堅固な城に造成します。それから9年、成人した上杉朝定は、川越城の奪還を目指します。敵対していた関東管領・山内上杉氏(上杉憲政)と古河公方(足利晴氏)と和議を結び、川越城(北条綱成)を総勢8万の軍勢で包囲します。
が、川越城の軍勢3,000の抵抗により城の奪還はできません。両上杉・古河公方連合軍の士気が下がったころ、天文15年(1546年)三代北条氏康の軍勢8,000による夜襲(川越夜戦)をうけ、上杉朝定および難波田弾正は敗死し、扇谷上杉氏は滅亡します。 上杉憲政は、居城・上州平井城に敗走。足利晴氏も古河に逃げ、松山城は北条氏康の手に渡ります。しかし、難波田弾正の娘婿の太田資正が上田朝直と共謀し松山城を奪回します。上田朝直が城代になるものの、その後上田朝直は北条氏に寝返ったため、松山城は再び北条氏の城になります。
敗走した関東管領・上杉憲政から、関東管領職および名跡を継いだ上杉輝虎(謙信)は、永禄4年(1561年)、松山城を北条氏から奪取し岩槻城主の太田資正を城代とします。しかし、永禄6年(1563年)に北条氏康と武田信玄の連合軍の攻撃の前に再び陥落、松山城は再度北条氏のもとに戻ります。それ以降、松山城は一貫して北条氏家臣団に組み込まれた上田氏の居城となり、同氏は松山領と呼ばれる比企地方一帯を支配下に置きます。
◼️安土桃山時代
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原北条征伐が行なわれます。松山城主・上田憲定は小田原城に籠城したため、代わって山田直安以下約2,300名が松山城に籠城します。 しかし前田利家・上杉景勝/直江兼続・真田昌幸/信之/信繁・大谷吉継を主力とする大軍に城は包囲され落城します。
徳川家康の江戸入府にともない、松平家広が松山城に入り松山藩とします。慶長6年(1601年)に家督を継いだ松平忠頼が関ヶ原合戦での武功により浜松藩に移封されると同時に松山城は廃城となり、この地域は川越藩の藩領となりました。 家広の入城から廃城までの時期に交通の便が考慮され、搦め手にあたる城下町(松山本郷方面)とを隔てていた市野川にも往来用の橋が架けられ、松山宿へと整備されていきます。
◼️江戸時代
幕末の1867年(慶応3年)になると川越藩主であった松平直克が前橋藩に移封となり、飛び地となった比企・入間地域の62,000石を統治するため、慶応3年(1867年)松山陣屋が設置されました。しかし、明治4年(1872年)の廃藩置県により、松山陣屋もその使命を終えました。
▶︎松山城の縄張り
標高50mを超える丘陵に造られた松山城は、丘陵の北側から西側、南側を、市野川を天然の堀として利用した平山城です。 東側は、湿地帯となっており、その天然の要害から不落城とも言われました。西側の市野川をはさんで対岸にあたる比企郡の松山本郷(現在の東松山市)は平地になっており城下町として発展しました。大正14年(1926年)に"松山城址"として県の史跡に指定されました。松山城の城郭西部約16ヘクタールに、高低差と大規模な空堀を多用した技巧的な曲輪が集中しています。丘陵山頂の本曲輪から東方に沿って二の曲輪、三の曲輪、曲輪四が連郭式に配置されており、その周囲を帯曲輪や腰曲輪が囲む縄張りとなっています。