武州松山の歴史
松山の町の歴史は,鎌倉時代に鎌倉道の元宿(現松本町)周辺から始まります。
幕府のある鎌倉へ通ずる”元宿”は、鎌倉への連絡地点として重要性を帯び元宿の中心に位置する”妙賢寺”の創建もこのころ(永仁2年:1294)といわれています。
室町時代(15世紀)の応永年間(1394-1428)に吉見丘陵南端、標高60米の小高い山に松山城が築城されたといわれます。
元宿周辺は城下町として人家が集中し“松山本郷”と呼ぶようになりました。
松山という地名は、この辺りが松の多い台地であることに由来します。
天正13年(1585)に松山城主・上田憲定はこの松山本郷が手狭になったとして新市場を市ノ川沿いの低地に起こし“新宿”とします。ところが、この地域は水害の多い低地のため余り発展しませんでした。
徳川家康の関東入国後、天正18年(1590)には松平家広を藩主として一万石で武蔵松山藩が立藩され、のちに三万石に加増されますが、慶長6年(1601)に家広が病死すると、跡継ぎの松平忠頼は五万石に加増され浜松に移封したために松山藩は廃藩となります。
江戸時代
江戸時代に入ると、南北を貫く “日光脇往還(千人同心街道)” が整備されます。この道は江戸へ通じる道であることから交通量が増加。城との関係性が絶たれた松山は、街道に沿って南北方向(現在の本町)へ町並みが発達する宿場町となります。
元宿と日光脇街道の接する十字路は、鴻巣道、小川道、熊谷道など交わる交通の要衝となり、“札の辻”と呼ばれ本陣も設けられます。五・十の六斎市が催され、六斎市は大正期まで続きます。江戸時代末期になると、町並みは札の辻から西の小川道“城恩寺方面”に発達。
幕末の慶應3年(1867)には川越藩主・松平大和守が前橋城に移封されます。
この移封に伴い、飛地となる比企、入間の領地を管理するため “前橋藩松山陣屋”(市役所附近)が設けられ陣屋藩士258名および家族が移住し、当時の人口1600人のうち大きな割合を占めたといわれます。
明治~昭和初期
明治以降、陣屋跡地には多くの役所や公共施設が設置され、市街地も材木町、松葉町方面へ発展します。
また、陣屋の流れを汲み比企郡の行政、商業中心地へ発展していきます。
札の辻は大正期には四辻と呼ばれ、依然松山の中心地として町内初のコンクリート建築銀行が建てられるなど発展を見せます。
大正時代には本町四丁目(現二丁目)から材木町一丁目にかけての荒地を新開地として開拓。料理屋、芸者置屋、遊女屋の集中する花街として発展し、“紅梅町”と呼ばれるようになりました。大正時代は電気、東上線の開通(武州松山駅)、県立中学校の開校、女学校の開校など松山が大きく発展した時代でした。昭和14年には軍需を背景に重工業のヂーゼル機器(現ボッシュ)が進出し、戦後の発展に大きな役割を果たします。
昭和戦後期
昭和29年(1954)7月1日、松山町、大岡村、唐子村、野本村、高坂村が合併して人口約37,000人の東松山市が誕生します。
商業の中心地は本町から材木町一番街、さらに丸広百貨店⑩が一番街から材木町南側に移転し、まるひろ通り、ぼたん通りが中心商店街と
なります。本町は車社会の進展に伴い衰退し、紅梅町も住宅街へと変貌を遂げていきます。
東松山市指定文化財:涅槃図(江野楳雪画)
■絵解き
涅槃: 一切の煩悩(ぼんのう)から解脱(げだつ)した、不生不滅の高い境地。
転じて、釈迦(しゃか)や聖者の死。入滅。
①満月: お釈迦さまが涅槃(入滅)した2月15日は満月です。
15日の月は満々として欠けるところがないように仏陀も大涅槃に入り少しの欠滅もない。
②摩耶夫人(悲しみのあまり顔を覆っています):
お釈迦さまのお母さま(摩耶夫人)が、忉利天(とうりてん)から駆けつけています。
摩耶夫人にお釈迦さまの危篤を知らせに行った十大弟子の一人・阿那律尊者(あなりつそんじゃ)が先導役です。
③大きな錫杖と包み:
危篤状態のお釈迦さまに摩耶夫人が大きな錫杖と薬の入った包みを天上から投げ込みましたが、沙羅双樹の木枝に引っかってしまいます。
包みの中身はお釈迦さまが托鉢時に使用した鉢と袈裟が入っているという説もあります。
④沙羅双樹:
沙羅双樹の下でお釈迦さまは宝台に横たわって(頭を北側、右腹を西側)います。
沙羅双樹は文字通り2本づつ左右に描かれていますが、右側2本の沙羅双樹はお釈迦さまの入滅を嘆いて突然白く変色(枯れて)してしまいます。
⑤跋堤河(ばつだいが):
沙羅双樹の間に見える河。お釈迦さまが「この河の辺りで涅槃に入るのは人の命は水の流れと同じで止まることない。この河でそのことを知らしめるためである」と答えたようです。
⑥阿難尊者(アナンソンジャ)とアヌルダ尊者:
お釈迦さまが“これから涅槃に入る”とおっしゃった時、アナンソンジャは、その意味が理解できず、引き留めなかったことを後悔して嘆き悲しみ頭を逆にして気絶します。
アヌルダ尊者は蘇生しようと、水をアナン尊者にかけています。アヌルダ尊者は、“アナンよ、仏さまは涅槃されても無上の法がある。我々弟子は精進して衆生を救い恩に報いようではないか”と呼びかけ、アナン尊者は蘇生しました。
アナルダ尊者はお釈迦さまの葬儀を営んだ中心人物です。
⑦菩薩グループ:
宝台の周りには宝冠をつけた菩薩集(普賢菩薩、文殊菩薩、観自在菩薩、地蔵菩薩など)が参集しています。お釈迦さまは、“憂いてはならぬ。たとえ肉身が滅びても妙法はいつまでも残る”と解いています。
⑧弟子グループ:
弟子達は剃髪し袈裟を纏った羅漢姿で描かれています。お釈迦さまは、“汝らは私が逝った後は、私が説いた法を師とせよ。法を灯明とし法を帰依所としなさい“と説いています。
⑨天部グループ:
金剛力士やカルラ、獅子獣王などが鬼などの異形の姿で描かれています。
⑩在家グループ:
お釈迦さまに最後の食事(キノコ料理)を供養したジュンダ(純陀)が腰を抜かした状態で天を仰いでいます。お釈迦さまは、キノコ料理でお腹を壊したことが原因とされることを察知し、最上の料理であったと説いています。在家の人々には、”食事は身を支えるものであり、貪ってはならない。貪ると争いが絶えない“、と説いています。
※動物達:
日本には生息していない動物や鳥類などが数多く描かれているほか、空想の動物も描かれています。一様にお釈迦さまの死を悲しんでいます。迦陵頻伽(カリョウビンガ:人面鳥)も確認できます。
一般的に、猫は描かないのですが(理由:沙羅双樹に枝に引っ掛かった薬袋を、ネズミが取りに行こうとしたら、猫に邪魔されたため薬を飲めずに死亡した)、こちらの涅槃図は絵師がコッソリ猫を描いたのでしょう。
水墨画で著名な長谷川等伯は自身をコソッと描き入れた遊び心を持っています。